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西城秀樹さん インタビュー前編

「西城秀樹」氏を偲んで

 

2018年5月18日、一人の偉大なスターが亡くなりました。名前は「西城秀樹」氏、63歳でした。チーム医療推進協議会では二度による脳梗塞を懸命なリハビリにより克服し、見事に歌手として復帰された当時(2013年2月22日)にインタビューとして多くの医療スタッフに支えられた経験を記事として掲載させていただきました。また、2014年3月8日に日本言語聴覚士協会では「脳梗塞からの復帰とリハビリについて」をメインテーマにしたトークイベントに出演していただくなど、わたくしたちチーム医療推進協議会とは深い関係を築いていました。脳梗塞による右半身マヒの後遺症を、懸命なリハビリの継続により克服しつつある中での、今回の訃報は、わたくしたちチーム医療推進協議会の各団体におきましても深い悲しみ包まれているところです。「西城秀樹」氏のご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

合 掌

 


 

 

西城さんが脳梗塞(のうこうそく)を発症したのは、韓国での公演先でした。2003年のことです。歌手にとっては命にも等しい声帯もやられ、引退を覚悟したこともあったそうですが、そこを懸命なリハビリテーションで克服。ところが、こともあろうか8年後(2011年)に脳梗塞が再発してしまい、再びリハビリの毎日という生活を強いられました。インタビュー当日もリハビリをしてきたという西城さん。話題も自ずとリハビリが中心になりました。そこで感じたチーム医療の重要性とは。
(チーム医療推進協議会相談役 小嶋修一)

 

 

リハビリの要諦はやはり「継続」

2011年の年末に脳梗塞が再発。後遺症は、一度目の時よりも重かったそうです。西城さんには、ろれつが回らなくなる「構音(こうおん)障害」や、体の右側が麻痺して自由に動かせなくなる障害が残りました。初期治療が終わると、リハビリ専門の病院に転院し、体の機能回復につとめました。今では、リハビリは治療開始後できるだけ早く始めることが常識になっており、西城さんも多くのメディカルスタッフ(医師を含めた医療者)と一緒に、早期から社会復帰を目指しリハビリに励みました。

多職種にわたるメディカルスタッフが、それぞれの高い専門性を生かして、その患者にとって最高の治療を行うことを「チーム医療」といいます。脳梗塞のリハビリで活躍するチームの主なスタッフは、医師・看護師・理学療法士・義肢(ぎし)装具士・作業療法士・言語聴覚士・管理栄養士・歯科衛生士・臨床心理士・医療ソーシャルワーカー・診療情報管理士らです。西城さんの場合も、メディカルスタッフに支えられたことが大きかったと述懐しています。

西城さんは今でも、足の機能回復のために週二回、言語機能の回復のために週一回、通院してリハビリを続けています。体の機能回復の分野で活躍する専門職が理学療法士、話したりする機能を回復させるためのプロフェッショナルが言語聴覚士です。

「体に刺激を与えながら、リハビリは進められます。ボールを使ったり、立ったり座ったり、また歩いたりと、リハビリを続けています。おなか周りの筋肉をつけること、バランスよく体重移動できるようにすることなどが、課題として与えられます」言語機能回復のためには、どんなことを行ったのでしょうか。

「松下幸之助さんなど著名人が残した名文を音読します。これはとても大変な作業でしたが、文章を覚えながらやっていくことが話すことにプラスになっていきました」また、毎日、子音と母音を繰り返し発音する練習をしました。そのうちに、“たいよう”と“たいほう”などといった、発音が似た単語を言い分ける練習に進んでいきました。
「どうしても、病気になる前のように、スラスラとは話せません。そのことにストレスを感じてはいますが、いまは、ゆっくり話すことを心がけています」こうして、言語機能を取り戻すことができたのでした。

ここまで読まれると、西城さんは、たいへん順調な回復だったと受け止められるかもしれません。でも、良くなったなと実感するまでには、年単位の長い時間がかかったそうです。そのことを西城さんは「自分が気付かない程度のハードルを一つクリアするにも一年はかかる」と表現していました。とにかく、本人が努力を続けること、継続することが最も大切であることを教えてくれました。

家族に支えられて

自分を支えてくれたのは、ほかでもない家族だったそうです。リハビリ専門病院を退院した後は、家庭でのリハビリが中心となるわけですが、西城さんの場合、病院のメディカルスタッフに代ってサポートしてくれたのが、妻など周囲の人たちでした。
「(その際に重要なことは)単なる同情ではダメだということ。家族がヘルパーになってはダメだということです」

脳梗塞では、「患者を支える周囲の人たちも、患者と一緒になって闘わなければならないことを一人でも多くの人に知ってほしい」と訴えています。
リハビリの初期は、こどもがやるようなことからはじまります。
「(それを)屈辱的と考えては前へ進みません。治りたいのか、治らなくてもいいのか、そこを考えれば、がんばるしかないのです」
西城さんの息子さんは、地元のサッカーチームに入っているそうですが、今の目標は、「息子と一緒にサッカーをやること」。
そのために、リハビリにもおのずと力が入ってくると話してくれました。そういった西城さんの生きざまに、多くの人が勇気と元気をもらっているわけですね。
リハビリ以外にも、西城さんはジムで自主トレを行っています。そのなかで、大変効果的だったのは、「水中ウオーキング」だといいます。

「水中ウオーキングは、自分のリハビリに役立つのではないかと思ったのです。そこで、病院の理学療法士にやりかたや注意すべき点などを詳しく教えてもらいました。寒くなると、やめてしまう人がいますが、それではダメ。このほかにも柔軟体操を取り入れるなど自分で工夫して、毎日リハビリしています。繰り返しになりますが、継続は力なりです」
このように常に前向きで、何が何でもやり続けることこそが、その後の回復につながっているのでしょう。

メディカルスタッフの言葉に感じる“他人事(ひとごと)”

メディカルスタッフと患者との考え方の違いや、感じ方の温度差は、医療の様々な現場で指摘されています。西城さんも、ご自身の闘病の過程でそんな体験をしたといいます。
「患者の立場で考えていないことが多いのではないでしょうか。どこか、他人事なのです!」
具体的には、どんなところにそう感じているのでしょうか。
「どの段階になれば退院できるのか、私から尋ねると、『日常生活に困らない程度になったら退院です』という返事がかえってくる。これでは、困ってしまうのです」
西城さんは、たたみ掛けるように続けた。
「退院してもリハビリは続きますから、通院しなくてはならないわけです。一人では通えませんから、付き添いも必要です」
そういった患者側の事情も考慮して、リハビリ期間の算定をしてほしいと主張していました。

さらに、「『日常生活に困らない程度』とは、いったいどこで線を引いているのでしょうか」と、疑問を投げかけます。西城さん自身、退院しても入浴やトイレなど、日常生活で大変苦労したそうです。「日常生活に困らないということは、何とかできること」と病院からは説明されましたが、「それでは、患者は納得できません。回復の程度も患者によって異なります。一人一人がきちんと生活できるまでみてほしいというのが率直な願いです」と西城さんは話しています。

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プロフィール
歌手・西城 秀樹

1955年4月13日生まれ 広島県出身
1972年「恋する季節」でデビュー。73年5枚目のシングル「情熱の嵐」発売ヒット・チャート初のベストテン入り、次作「ちぎれた愛」も4週連続1位。第15回日本レコード大賞歌唱賞初受賞(以降、第16.18回)。79年28枚目のシングル「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」が、ミリオンセラーに輝くヒット。日本テレビ音楽祭グランプリ、日本歌謡大賞大賞、FNS音楽祭グランプリ、日本レコード大賞金賞ほかを受賞。04年『あきらめない ~脳梗塞からの挑戦~』(二見書房より発売)。05年50歳を記念して初のライブハウスでのライブ「50th Anniversary Second Birthday!!」。07年IFPI香港(香港のレコード協会にあたる)設立40周年記念のイベントに招かれ、ヒット曲「傷だらけのローラ」「めぐり 逢い」を歌唱し、往年のファン3600人から熱烈な声援を受ける。12年「ありのままに『三度目の人生』を生きる」(廣済堂出版)を発売。11年末に脳梗 塞再発という事態に見舞われ、復帰を目指しリハビリを続ける葛藤の日々の中で自分を見つめ直した一冊となっている。

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